(^O ^)五島十七日祭り 有川町Arikawa o(^ -^) o !!
主な行事はLinkしちょるけんclickしてね。
1月14日 勇壮な鯨太鼓の めーざいでん(弁財天)
3月〜4月 阿瀬津熊野神社で桜の花見でもしませんか。
4月下旬〜6月 蛍見物 (えっこんな所で蛍が見られるんですか?)蛍コンサートも6月頃開催されます。
5月 春の交通安全パレード A safety driving week
5月下旬 五島地区の小学校の運動会(今年の有川小学校は5月20日)
6月 五島地区中学校総合体育大会(陸上だけ早めに実施し残りは6月下旬頃実施する)
7月 有川神社 祇園祭。夜祭りでは獅子と天狗の舞が見られます。皿を持っての踊りはなかなか見応えがあるよ。踊っているときに "あらえっさ" と上手く掛け声を入れれるようになったら一人前の子供として認められます。間違って掛け声を入れたらみんなから白い目で見られて恥ずかしさの余りに1年間は外出、出来ません
7月19日、20日 arinefestival in Arikawa打ち上げ花火や夜市もあるよ。 はまぐんの浜で遊ぼうデ (7月20日) 
7月第4日曜日 十七日祭り
8月13日〜15日 薙刀踊り(鯛ノ浦)
8月20日,日曜日 第50代横綱佐田の山杯子ども相撲大会(第5回)
9月 五島地区中学校の体育大会(10日上五島高等学校体育祭)(17日有川中学校体育祭)
10月第3土曜日 町内子ども相撲大会 (2000年10月21日)
10月第4日曜日 産業まつり
11月2日5日 文化祭 Boyの若いときには前夜祭に何度も出場し、短歌も展示したのですけど、今はパソコン熱中Boyです。
由来 海難事故防止  Protect sea accident 
1617年江戸時代初期の夏、旧暦6月17日に近くの海で泳いでいた子供や大人の網子など数人が次々に水死した。その年はそのままで過ぎたが、翌4年と5年の同じ6月17日、又不思議にも水死者が相次ぎその数は増えるばかりで、出漁するものも次第に減り、子供達は海を見るのも恐ろしくなり、村人達も恐怖と不安が募るばかりであった。ところがある晩、村の乙名役(おとなやくと読み現代の取り締まりのごとき役)の高井良福右衛門の枕元に海龍神と名乗る神様が現れ、福右衛門よ、わしはずっと昔からこの地方に住んでいるが誰も祀ってくれる人もなく住む家さえない放浪の身だ今からでも住むところを見つけて祀ってくれるなら、どんなことでもしてやろう。と云って煙のように消え去った。
  そこで福右衛門は1620年6月17日に村人達と相談して、早速 応護島(おこじま)に祠を建て即席の"にわか"を奉納して海龍神を慰めた。以来海龍神は約束を守り水死者は出なくなったという。それ以来漁師の多い船津、中筋両地区において毎年例祭が継続されてきた。 
日時 7月第4日曜日。今年は23日(日)午後1時スタート(花火)
会場 海童神社を皮切りにほか数カ所の町内各要所の踊り場で演じられ、最終演技場はNo.1Boy家の経営するコトブキ商店前 となっている。
要領 有川8ヶ郷による9チームと、更に企業等の賛助出演に拠って、7分程度の寸劇や、踊りを俄芝居に仕立てて10組ほどの山(数人で担げる小舞台)を出し三味線、鉦、太鼓のしゃぎりを賑やかに響かせながら街中に繰り出し、海童神社を皮切りに数カ所の踊り場で寸劇(にわか)舞踊等が演じられ.往時は年中で最も人手が多く町内は勿論、隣接町からも多くの見物人が集まり、道も通れないほど終日うまらしゅう賑わっていた。  
歴史と
その改革
船津、中筋の両郷から十組の山を出して、踊る箇所も100ヶ所を越え夜半まで賑わっていた。昭和の中期頃には浄瑠璃語りがあったが現在では、
昭和30年頃 町の過疎化が進行し始めて、役者となる若者が少なくなり、子供達による舞踊等を演じる組も出てきた。
昭和35年 "踊り町当番制"が取り入れられ、船津、中筋両郷で5組が踊り町となり、5組が休むという隔年方式となった
昭和46年 両郷から2山と3山を交互に出す方法に変えた
昭和50年 組内がしっくり行かないと云う不満が生じ、旧来の船津、中筋から十組の山を出すように復旧された。
昭和51年 子供が参加しやすいように、祭りを夏休み期間の7月27日に改めた。その後高井良家の後継者不在により、高井良家門前での"にわか"は中止となる
昭和62年 三社統合に伴う有川神社の新設により有川祭り振興会が発足し、従来の船津、中筋両郷に加えて、浜、上有川、高崎、西原、茂串、蛤、の各郷も参加しての有川8ヶ郷による9チームとなり、更に企業等の賛助出演もあり、低調を辿ってきた祭りが再興されつつある。
平成5年 勤め人も参加しやすいようにと夏休みに入った最初の日曜日(原則として第4周の日曜日)に開催日を変更
参加資格 町内在住・男女年齢は問わない。No.1Boyの弟は毎年、船津の山の脚本、演出、監督を担当している
その他 No.1Boyは船津出身で勿論幼少の頃より参加していた。
祭りの途中で船津地区の人みんなが集まって世間話をしながら昼食におにぎりを食べたのがとても楽しくて、また祭りに参加すると、当時アイスキャンデイ一本5円の時代にお小遣が50円〜100円程度船津郷より配当があり、途中ではアイスキャンデイ^やジュースの配当などもあり、全く愉快なお祭りでNo.1Boyは毎年楽しみにしちょリました。
鉦叩き・・・・・幼少の子供
太鼓持ち・・・・・小学高学年〜中学生
太鼓叩き・・・・・中学生位
三味線弾き・・・・・有川を代表する三味線の名手でヨカおなご
山担ぎ・・・・・山を担ぐ屈強な男
幕切り・・・・・日の本の総理大臣に匹敵するほど優秀な大人。
役者・・・・・ヨカ大人(現代は20歳前後の青年が多い) 
現在の船津の山の最終幕切りはBoyの古くからの友人で松浦信行氏である。彼の口上の一部を紹介します。
トザイ東西、笛や太鼓の音も賑やかに、やって参りましたるは船津は西町船津は西町さて我等が船津の誇る若手俳優によって演じられまする俄の芸題は" 国定忠治の赤城山" " 国定忠治の赤城山" 如何なりましょうや。最終まで、ごゆっくりとご観覧の程。さようさよよよよよよ おおおおおと云いながら幕を開けていくので有る 。これは一気呵成に云わなければならない。ちょっとでもつまずくと後の反省会でみんなからやんやの突き上げを食らうことになる。立石善良先生よりの資料提供でした
十七日祭り  7月第4日曜日。今年は22日
十七日祭りの日や、いっでん、こがんにヨカ天気ですバイ。
この写真は有川から対岸の新魚目町の番岳を撮ったもので,
番岳は高さ約368mで写真の端から端まで約3〜4kmあります

三味線、鉦、太鼓のしゃぎりを賑やかに響かせながら街中に繰り出します。三味線はNo.1Boyclubの会員である白石君のおばあちゃんです。

船津の誇る時代物です。白い装束の演技者はのんちゃんだい

No.1Bo家の店であるコトブキ商店の前が最終演技場となってるよ

役者さんは途中で随分お酒を勧められて、コトブキの前に来たときにはぐでんぐでんに酔ッパロチョッテ、アドリブん増えちょって、どうもこうもならんですバイ

皮切りの海童神社では10分で終わったにわかがコトブキの前ではアドリブん増えちょって30分位かかっどばな

船津の誇る現代物です。石橋酒屋ん、あんちゃんが警察官にふんして大活躍です

昔、ようおったステテコ姿のおじさんがここでは健在です。

Boyの弟が脚本書き、監督した。昔の遊び太公地を題材とした現在劇

おっとここにもNo.1Boy clubの卒業生の、宗君が出ちょるよ

殿は神主さんが笛を吹き太鼓を叩いて清めて締めとします。

ここから2001年、ここが出発点の海道神社です。

全国でも珍しい鯨の顎骨を使った鳥居にちょっと接近してみました。

囃子方です

これは皆さんにお断りして写真を撮らせていただきました 

会場の全体像ですよ

役者さんです

かおりちゃんです
     
 自由にリンクして下さい。制作環境:Win10|閲覧推奨:15inch Moniter more.フルカラー環境|動作確認