ゴールデンスランバー・もうひとつの結末 その1
『Golden Slumbers Another End』
第四章 事件 468ページ 8行目
青柳雅春
青柳雅春は襟につけたマイクを取り外し、放り投げた。携帯電話を畳み、ポケットに入れる。溜息を吐く。自分の浅知恵ではどうにもならないほどの強敵なのだ。怯えより、呆れのほうが強かった。巨人の王様を敵に回して、勝ち目はない。唯一できることは、と言った三浦の言葉を思い出す。昔、森田森吾が言った言葉でもあった。
「逃げることだ」
しかし、いつまで、どこまで、逃げればいいのだ。この場を逃げ切ったところで、何も変わらないことは明白だった。巨人の王様に勝てないからと言っても、逃げ切れるとも思えない。何かを変えなければ、何も変わらない。その為にも今は前に進むしかない。
樋口晴子
マンションの駐輪場から、夫の樋口伸幸が通勤に使っている自転車を引っ張り出した。鍵のはずし方が分からず、手間取り、動揺した。早く行かないと、と思うほどうまくいかなかった。
鍵がはずれると、スタンドを上げ、飛び乗る。ハンドル部分が横一文字になった。オフロード用にも使えるタイプで、樋口晴子が乗るのは、樋口伸幸が購入した直後に、「乗ってみる?」と誘ってきた時以来、二度目だった。
ハンドルをつかむと、思った以上に前傾姿勢になり、ペダルを漕ぐと前に、ぐん、と飛び出す。夜のせいもあり、速度が上がることが怖くて仕方がなかったが、躊躇しているわけにもいかない。
ジャケットを羽織っていたものの、風は冷たかった。
眠気は飛んでいた。朝の四時だろうが何時だろうが、それどころではない。先ほど、映っていたテレビの画面を思い出す。警察車両と並び、停車していた菊地将門のワゴン車だ。嫌な予感しかなかった。
テレビ局の中継車両が窓からの光景をずっと映していたため、おおよその場所は見当がつく。西へ向かい、交差点の右側、と頭に地図を思い描き、太股を動かす。
朝の四時前であるから、道には車も人もいなかった。路面も空もまわりの建物も藍色で包まれている。色の濃さの異なる藍色だ。
街路樹の明かりが遠ざかっていく。七美と一緒に行動していないことが不思議な感覚をもたらした。自由は感じなかった。心もとないと言ったほうが近い。息が切れ、足が重い。車の通行がないのをいいことに、片側二車線の広い車道を斜めに横切る。一回、ペダルを止める。音を立て、自転車が滑走する。反対側の路肩に辿り着き、前輪が段差に衝突して、少し跳ねた。
青柳雅春
衆人環視の中、歩み出ていく。数えきれないほどの目が、自分を見ているはずだ。
両手を真直ぐ下ろし、足を踏み出すと、遠くにあるはずのテレビカメラがぎゅっと目を凝らし、こちらに向かって、首を伸ばしてくるような、そんな気配を感じた。回りを囲む、マスコミや警察関係者たちの姿は見えない。照明が自分に向かって、放射されているだけだ。
一歩、一歩、足を踏み出す。公園の敷地は広かった。
どこにカメラが、どこに照明が、ましてやどこに銃口があるのかも分からなかった。自分はただ、照らされたこの広場を進み、最後の勝負に賭けるだけだ。
先ほど、「投稿場所を中央公園に変更する」と電話した時、人質がいるから公園とそれに接する道路には誰も来るな、と佐々木一太郎には念を押した。テレビ局への電話でも同じことを伝えた。人影が見えたら、人質の命はない。悲惨な光景がテレビに映るぞ、と乱暴で、品のない脅しを言った。それをどこまで真に受けてくれたのかは定かではないが、とにかく、広場に人影はない。おそらくはテレビ局のスタッフ同様、近くに建物の屋上と道路にみっしりと待機しているに違いない。
「佐々木さんが一人で、市民広場に迎えにきてくれれば、大人しく捕まるよ」と条件を出し、あちらはそれを飲んだ。
「私は、君が現れるのを公園で待っていればいいのか」
「駄目だ」と青柳雅春は強く、言った。出て行った途端に、もみ合いになるような展開は避けたかった。その時はもちろん、テレビ中継で、自分の言葉を話すつもりだった。「俺が、人質を抱え、広場を進む。真ん中あたりで、ハンカチを振る。そうしたら出てきてほしい。人質を放すから、俺を捕まえればいい」
「どうしてそんな段取りを踏む必要がある」
「長くカメラに映りたいんだ」それは本心だった。中継する時間が必要だった。
「人質は誰だ。どうして連れてくる」
「そのまま出て行ったら、どうせ、俺のこと撃っておしまいにするんだろ」
今、警察側では、青柳雅春が人質を連れていないことに驚き、同時に、拍子抜けを感じているに違いない。何か裏があるのか、と深読みし、「撃つのは待て」と指示が出ているのかもしれない。人質を連れていない自分を、突然撃ってはこないだろうが、何らかのアクションはあるだろう。それも長い時間ではないはずだ。それらしい理由を作って、この場で青柳雅春を始末するはずだ。しかし撃たれることは想像出来るが、それ以外のシナリオがあるかもしれない。狂人という名の刺客が突然現れて、青柳雅春を刺しにくることだってある。
気付いた時には、晒している身体に刃物が突き刺さっているかもしれない。あらゆる恐怖が頭を渦巻く。一歩、一歩、まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だ、と確かめながら進む。気が遠くなりそうになるのを、堪えた。まだここで倒れるわけにはいかない。
この照明の奥、カメラが映している向こう側では、大勢の人間が、首相殺しの犯人の面を一目見ようとテレビを見つめているはずだ。何割が、青柳雅春が犯人だと信じているのか見当がつかない。おそらくは、そんなことすら気にかけていない人間が大半ではないかと思えた。犯人かどうかは二の次で、とにかくこの、リアルタイムの大騒ぎを、サッカー観戦さながらに眺めているに違いない。
どこかでバイクの走る音がかすかに聞こえた。新聞配達のバイクだろう。
そうか、と青柳雅春はあらためて、思う。今ここで俺が大変な事態に巻き込まれている時にも、新聞配達人は自分の仕事をこなしている。各家々には新聞が配られ、朝が来て、一日がはじまる。会社や学校に向かい、「あの中継、観てたから、眠くてしょうがねえよ」と愚痴りながら、普段と変わらない日常の生活に戻っていく。ワールドカップの日本戦、翌日と変わらない。
青柳雅春は市民広場の真ん中で立ち止まると、胸を張り、視線を上にやる。カメラはどこだろう。
これで少なくとも、この時まで俺はここに存在していた、という証明にはならないだろうか、と思った。偽物ではなく、本物の青柳雅春がここにいる。そして、俺は犯人ではない。
しかしこれからそのことを、証明しなくてはならない。親父とおふくろも必ず見ているはずだ。その為に死ぬわけにはいかない。
携帯電話が使えない今、腹をくくるしかない。
「オズワルドにされるぞ」また森田森吾の声が聞こえた。
一か八かの大勝負。生きてさえいれば、勝機はある。そう信じるしかなかった。生き残ること、それ以外に道はないように思えた。
青柳雅春はジーンズのポケットに右手を突っ込み、ハンカチを一枚取り出した。ひと呼吸おいて、白いハンカチを頭上高くあげ、どこから見ても分かるように大きく振った。
広場のまん中で揺れる白いハンカチは、降参ともとれるような白旗に見えた。
つづく
ゴールデンスランバー・もうひとつの結末
第四章 事件 468ページ 8行目
青柳雅春
青柳雅春は襟につけたマイクを取り外し、放り投げた。携帯電話を畳み、ポケットに入れる。溜息を吐く。自分の浅知恵ではどうにもならないほどの強敵なのだ。怯えより、呆れのほうが強かった。巨人の王様を敵に回して、勝ち目はない。唯一できることは、と言った三浦の言葉を思い出す。昔、森田森吾が言った言葉でもあった。
「逃げることだ」
しかし、いつまで、どこまで、逃げればいいのだ。この場を逃げ切ったところで、何も変わらないことは明白だった。巨人の王様に勝てないからと言っても、逃げ切れるとも思えない。何かを変えなければ、何も変わらない。その為にも今は前に進むしかない。
樋口晴子
マンションの駐輪場から、夫の樋口伸幸が通勤に使っている自転車を引っ張り出した。鍵のはずし方が分からず、手間取り、動揺した。早く行かないと、と思うほどうまくいかなかった。
鍵がはずれると、スタンドを上げ、飛び乗る。ハンドル部分が横一文字になった。オフロード用にも使えるタイプで、樋口晴子が乗るのは、樋口伸幸が購入した直後に、「乗ってみる?」と誘ってきた時以来、二度目だった。
ハンドルをつかむと、思った以上に前傾姿勢になり、ペダルを漕ぐと前に、ぐん、と飛び出す。夜のせいもあり、速度が上がることが怖くて仕方がなかったが、躊躇しているわけにもいかない。
ジャケットを羽織っていたものの、風は冷たかった。
眠気は飛んでいた。朝の四時だろうが何時だろうが、それどころではない。先ほど、映っていたテレビの画面を思い出す。警察車両と並び、停車していた菊地将門のワゴン車だ。嫌な予感しかなかった。
テレビ局の中継車両が窓からの光景をずっと映していたため、おおよその場所は見当がつく。西へ向かい、交差点の右側、と頭に地図を思い描き、太股を動かす。
朝の四時前であるから、道には車も人もいなかった。路面も空もまわりの建物も藍色で包まれている。色の濃さの異なる藍色だ。
街路樹の明かりが遠ざかっていく。七美と一緒に行動していないことが不思議な感覚をもたらした。自由は感じなかった。心もとないと言ったほうが近い。息が切れ、足が重い。車の通行がないのをいいことに、片側二車線の広い車道を斜めに横切る。一回、ペダルを止める。音を立て、自転車が滑走する。反対側の路肩に辿り着き、前輪が段差に衝突して、少し跳ねた。
青柳雅春
衆人環視の中、歩み出ていく。数えきれないほどの目が、自分を見ているはずだ。
両手を真直ぐ下ろし、足を踏み出すと、遠くにあるはずのテレビカメラがぎゅっと目を凝らし、こちらに向かって、首を伸ばしてくるような、そんな気配を感じた。回りを囲む、マスコミや警察関係者たちの姿は見えない。照明が自分に向かって、放射されているだけだ。
一歩、一歩、足を踏み出す。公園の敷地は広かった。
どこにカメラが、どこに照明が、ましてやどこに銃口があるのかも分からなかった。自分はただ、照らされたこの広場を進み、最後の勝負に賭けるだけだ。
先ほど、「投稿場所を中央公園に変更する」と電話した時、人質がいるから公園とそれに接する道路には誰も来るな、と佐々木一太郎には念を押した。テレビ局への電話でも同じことを伝えた。人影が見えたら、人質の命はない。悲惨な光景がテレビに映るぞ、と乱暴で、品のない脅しを言った。それをどこまで真に受けてくれたのかは定かではないが、とにかく、広場に人影はない。おそらくはテレビ局のスタッフ同様、近くに建物の屋上と道路にみっしりと待機しているに違いない。
「佐々木さんが一人で、市民広場に迎えにきてくれれば、大人しく捕まるよ」と条件を出し、あちらはそれを飲んだ。
「私は、君が現れるのを公園で待っていればいいのか」
「駄目だ」と青柳雅春は強く、言った。出て行った途端に、もみ合いになるような展開は避けたかった。その時はもちろん、テレビ中継で、自分の言葉を話すつもりだった。「俺が、人質を抱え、広場を進む。真ん中あたりで、ハンカチを振る。そうしたら出てきてほしい。人質を放すから、俺を捕まえればいい」
「どうしてそんな段取りを踏む必要がある」
「長くカメラに映りたいんだ」それは本心だった。中継する時間が必要だった。
「人質は誰だ。どうして連れてくる」
「そのまま出て行ったら、どうせ、俺のこと撃っておしまいにするんだろ」
今、警察側では、青柳雅春が人質を連れていないことに驚き、同時に、拍子抜けを感じているに違いない。何か裏があるのか、と深読みし、「撃つのは待て」と指示が出ているのかもしれない。人質を連れていない自分を、突然撃ってはこないだろうが、何らかのアクションはあるだろう。それも長い時間ではないはずだ。それらしい理由を作って、この場で青柳雅春を始末するはずだ。しかし撃たれることは想像出来るが、それ以外のシナリオがあるかもしれない。狂人という名の刺客が突然現れて、青柳雅春を刺しにくることだってある。
気付いた時には、晒している身体に刃物が突き刺さっているかもしれない。あらゆる恐怖が頭を渦巻く。一歩、一歩、まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だ、と確かめながら進む。気が遠くなりそうになるのを、堪えた。まだここで倒れるわけにはいかない。
この照明の奥、カメラが映している向こう側では、大勢の人間が、首相殺しの犯人の面を一目見ようとテレビを見つめているはずだ。何割が、青柳雅春が犯人だと信じているのか見当がつかない。おそらくは、そんなことすら気にかけていない人間が大半ではないかと思えた。犯人かどうかは二の次で、とにかくこの、リアルタイムの大騒ぎを、サッカー観戦さながらに眺めているに違いない。
どこかでバイクの走る音がかすかに聞こえた。新聞配達のバイクだろう。
そうか、と青柳雅春はあらためて、思う。今ここで俺が大変な事態に巻き込まれている時にも、新聞配達人は自分の仕事をこなしている。各家々には新聞が配られ、朝が来て、一日がはじまる。会社や学校に向かい、「あの中継、観てたから、眠くてしょうがねえよ」と愚痴りながら、普段と変わらない日常の生活に戻っていく。ワールドカップの日本戦、翌日と変わらない。
青柳雅春は市民広場の真ん中で立ち止まると、胸を張り、視線を上にやる。カメラはどこだろう。
これで少なくとも、この時まで俺はここに存在していた、という証明にはならないだろうか、と思った。偽物ではなく、本物の青柳雅春がここにいる。そして、俺は犯人ではない。
しかしこれからそのことを、証明しなくてはならない。親父とおふくろも必ず見ているはずだ。その為に死ぬわけにはいかない。
携帯電話が使えない今、腹をくくるしかない。
「オズワルドにされるぞ」また森田森吾の声が聞こえた。
一か八かの大勝負。生きてさえいれば、勝機はある。そう信じるしかなかった。生き残ること、それ以外に道はないように思えた。
青柳雅春はジーンズのポケットに右手を突っ込み、ハンカチを一枚取り出した。ひと呼吸おいて、白いハンカチを頭上高くあげ、どこから見ても分かるように大きく振った。
広場のまん中で揺れる白いハンカチは、降参ともとれるような白旗に見えた。
つづく
ゴールデンスランバー・もうひとつの結末